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ミクロの達人/清田茂男
ミクロの達人/清田茂男
 

 
嵐の様な雪がこぼれ落ちる涙と溶け合い、少年の心身を凍らせた。馬のそりに揺られること4時間。
「貧乏から脱皮したい」。わずか10歳にして志しを持ち、北海道から単身で東京に向かう、この少年が後に「世界の清田」と呼ばれる若き清田茂男さんの姿であった。

 
■電子回路の性能測定 世界で一人だけの技術
「ミクロの世界に清田あり・・・」
何でも、電気の値を正しく計る為に提唱された、ケルビンという有名な物理学者の測定法則に最も近づけた、世界で唯一の人だという。半導体や電子回路、デバイスと聞いただけでも逃げ出したくなるというのに、それらの製品の性能を測る測定器(プローブ)を作っているというのだから、記者はお手上げである。北区は上中里駅、迎えてくださった清田さんは、思い描いていた神経質でふんぞり返った学者とは懸け離れ、「人情」という香りが滲み出ている、穏やかで優しい目の持ち主であった。

清田製作所社長・清田茂男さんは1927年(S2年)生まれの76歳。北海道は積丹(しゃこたん)の小学校に6年通っただけ。わずか10歳のとき東京・荒川の町工場に出て、以来、製造現場で精密機械のパーツやプローブの開発に取り組んできた。ある種の半導体や高周波デバイスのプローブをつくれるのは清田さんの他イギリスにもう一人だが、世界で清田さんだけしかつくれない製品もあるという。

ミクロの世界に清田あり―
94年都市型工業大賞、95年科学技術振興功績賞などを受賞。駅の真横に位置する清田製作所は、輝かしい功績から来るイメージと中々結びつかなかった。そこは、どこか懐かしさを感じさせる、小さな小さな町工場だった。

清田製作所    工場内
【清田製作所】
【工場内】
一体、これまでどのような人生を歩んでこられたのか、どこでどう知識と技術を磨いて今があるのか。「自分を振り返るのは、次のステップになるんです」という清田さんの人生を、その生い立ちまで遡ってみた

■生い立ち
生まれは北海道の積丹半島。漁村の多い田舎町。当時はニシンがよくとれ、何十年も続いた最盛期には大変賑わっていたが、小学校に上がるころ、急に獲れなくなって、街全体が沈んでしまった。家は雑貨屋で貸し売りもしていた為、それこそ夜逃げしなくちゃならないような貸し倒れに遭い、どん底の生活が始まった。他人にペコペコ頭を下げる親の姿を見て、当時小学2年生だった清田さんは子供ながらに莫大な借金を知って頑張らなくちゃと思い、「何をすればいいか」と常に問いかけるようになる。
貧乏だったが、気持ちの面では非常に豊かな家庭だったという清田家。祖父母の代に、農業開拓を目指し石川県から北海道へ移り住む。おばあちゃん子だった清田さんは、内地からくる人を歓迎して常に情報収集する祖母の姿を見て育ち、また人の道を教えられる。「進んで汗を流しなさい。人に迷惑をかけてはいけない。騙されることを良しとしなさい、だが騙したらいけない。世のため人のために働きなさい」祖母の訓戒は積丹の浜の波のように、繰り返し繰り返し行われた。

北海道では、クラーク博士の『少年よ、大志を抱け』は皆の合言葉であった。また学校でも教師に「日本は東洋のスイスにならなければならない」、つまり資源がない国はどうすればいいかという事で、精密時計で知られるスイスに倣え、と。この頃に「何をすればいいか」という問いが「精密で勝負せよ」に結びついたのであろう。


■失望の時代  苦しい奉公
「志を立てて東京に出、何か仕事を覚えようとしたんですが、奉公した荒川のプレス工場では『お前はまだ小僧っ子だ。危ないから工場に入るな』と言われ、3,4年は子守です。朝のご飯どきにはもう『うるさいから連れてって。ずっと遊んでやって』と」志と違う。夜学くらいは入れてくれるだろうと期待したがそれもだめ。悩んだ。 

「それで主人が読み終わった新聞を懐に、子供を連れて砂場に行く。子供は一人で遊んでくれますから、自分は新聞の論説まで読んで、分からない字は近くの古本屋さんに寄って、立ち読みで辞書を引く。それで何となく産業の変化とか、将来の展望がどうとか、分かったような気になりましたね」こうして世界の情報や、グローバルな物の考え方はここで身に付いた。毎回同じ時間に現れタダ読みする小僧に古本屋のオヤジもしょうがないやと許してくれたそうだ。今、真っ先にお礼を言いたいが今では店がなくなってしまい、とても残念だと語る清田さん。夜は夜で、主人のお婆さんの肩揉みを1,2時間やらされた。お婆さんの母親は水戸の出で、徳川慶喜公を幼少のころ育てたとか。それでお婆さんから水戸学というか、行動的な水府流の考えを教えられたという。


■転機訪れる
戦争が始まり、若い人が戦場に出て行き技術者がどんどん減って行く。それは清田さんにとっては工場に入るまたとないチャンスでもあった。見よう見まねで技を盗んだ。一生懸命に働き、認められ、17歳という若さで工場長に抜擢されたのである。清田さんは向上心に富み、心から年長者に尽くす。年長者も清田さんを可愛がる。それで辛い境遇だったにせよ、いい人間関係を結べるし、後にいい思い出しか残さない。またその頃、剣豪小説に熱中し「剣豪たちの“人の道”を、心躍らせて読んだ」という。この「道」は古希を過ぎてなお不変。清田さんの好きな「見たり聴いたり試したり」という言葉とともに、清田製作所の基本理念になっている。


■出会い、そして二度目の転機
敗戦の年の11月、一度は北海道に帰る。当時のことであるから仕事は土木工事や漁業しかない。自分のしたいことをしてみたい。どうしたら、この貧乏から抜け出せるか。将来、独立することだ。独立するためにはまず自分を磨くことだ。そんな時、東京から呼ばれた。戦中、国の政策で中小企業は一つにまとまり、軍事工場になったのだが、多種多様の会社が集まっていた。中には大株主や工場の社長もおり、清田さんの才能を人づてに聞き、彼の腕をその当時から見込んでいたのだ。

 いわば青雲の志を抱いて1949年(S24年)、21歳のとき、清田さんは再び上京した。今度の勤め先は荒川のハーモニカ工場だった。日本で初めてハーモニカを製造した人の甥が社長で、従業員は100人くらい。玩具のハーモニカが主体だったが、技術レベルは高く、当時すでにミクロン(1000分の1_)の単位を使っていた。


■苦節乗り越え
しかし、社長の期待は大きく外れることになる。というのは、清田さん、戦後3年間漁師をしていたせいで、気が荒くおおざっぱな質になってしまったのだ。
「昔は才能があったが、今はとてもさせられない。精密なハーモニカ作りには向かない」と言われ、ハーモニカ工場の中でひたすら修理専門に。「絶対工場に入ってはいけない」と禁止令まで出たのだが、そこは反骨精神旺盛な清田さん。やはり作ることが好きなので、仕事が終わった後、こっそり工場で機械をいじり、ほとんど夜寝ずに勉強をした。


■あきらめない、努力
それでもなかなか肝心のハーモニカ作りの方はやらせてもらえなかった。「じゃあ、どうすればいい」考えた清田さんは、「荒さからくる粗さ」という問題を解決すべく、朝4時に起床し、習字を始めた。手本通り毎日毎日「自分を殺し、頭をからっぽ」にした。それが人づてに社長の耳に入って呼ばれた。見せると「下手」と言われ、更に練習を重ねる。「少しうまくなった」その内、社の掲示板の『社長の提言』を書くまでになり、そして遂に「(工場に)入ってもよろしい」というお達しが出たのだ。それ以後は社長の直弟子となり、7年後、清田さんはわずか29歳という若さで工場長に抜擢される。
「社長に息子さんがいましてね。親としてはゆくゆく息子の片腕にしたいと、私に一生懸命教えてくださった。厳しかったですね。その課程で、恥ずかしい話ですけど、こっちは3度、自殺未遂をやってしまう。だけど落ち着くところは、やはり郷里から出てきたとき考えたこと。貧乏から抜け出して母親や祖母を含めて家族みんなが幸せに暮らせる。祖母の顔が目の前に浮かんで自殺を思い留まり、また頑張って、という繰り返しをやってきたんですよ」当時を思い起こし、涙する清田さん。仕事の苦しさから自殺まで考えるのは、仕事に取り組む気落ちが生半可でなかったことを物語っている。いい加減な気持ちなら、単に会社を辞めればすむ。社長が清田さんを見込む気持ちもハンパではなかった。自分の息子の嫁の従姉妹を清田さんに見合わせ、結婚させたのだ。清田夫人の実家は鉄工場だったから、清田さんが夫になれば、傾きかけた鉄工場も立て直せるし、自分のハーモニカ工場の力にもなる。


■独立 時代の流れを察知し技術と知識を総動員する
しかし、工場長になったわずか3ヶ月後、清田さんは安定した生活を捨て、退職を願い出る。漁師時代に北大の学生から学んだ「資本主義はいつか成熟する。そうなると後はもう坂を転げ落ちていくだろう、そして共産主義が台頭する時がくる」という言葉が清田さんの頭にあった。「ハーモニカ会社はもう成熟したのでは?」共産主義に同調はしないが、別の観点から「産業構造が成熟すると、別の新しいものが生まれてくるだろう」と考えたのだ。辞職届けを出してから実際に辞めるのに2年半かかった。そして清田さんは1963年(S38年)夫人と二人だけで現在の清田製作所近くに金属プレスの下請け製造工場を立ち上げた。

「プレス工場の衰退が始まろうとしていた時期でしたけど、ちょうど同じころ、カメラという精密機械が台頭した。それに露出計がついているんですが、その部品をつくるところがない。もちろんセイコーやシチズンはつくれましたけど、時計並みに高くて、カメラメーカーじゃ使い切れない。

 当時のそれは弱いマグネットでメーターの針が動きます。部品の精度がよくて軽くなければ針が動きません。私のところにはハーモニカで培った技術がある。あれは銅合金の振動板を震わせて音を出すわけで、精密でなければ音が狂っちゃうんです」こうしてハーモニカ−カメラという思いがけない技術がつながった。73年にはさらにダイヤモンドのレコード針につながる。「アームの先にアルミの感知レバーがあって、その先端に微小なダイヤモンドを打ち込んで針ができてます。感知レバーはプレスの仕事なんですけど、レベルが高く、普通の工場ではおぼつかない。それをうちがやることになったんです。そのうちステレオには電子が入ってきます。精密なメカと電子を私はこの仕事で修得したんです」

 ほどなくLPはCDに取って代わられる。しかしステレオセットのアンプには半導体やチップも使われていた。清田さんはここで電子技術の到来を予感し、しり込みすることなく挑戦していった。「とにかく自分の知らないことは人様から教わるほかない。自分で覚えるのは限界があるけど、教わろうとすることは無限だ、と。私にとって雲の上のような方が結構私に手ほどきしてくれました」いわばハイテク時代の黎明期から清田さんは仕事を通して開発、製造に携わってきた。新技術は恐ろしくない。町工場で培った技術と知識を延長し、その上に研究者や専門家の知恵を借りて、どうやったら目標に達せられるか考える。

高電流対応用積層型プローブ 2点間が約200μmだが他に40μmもある。従来のものは寿命が5万回だかこれは300万回と驚くべき耐久の製品で業界に革命をもたらした。

*人の髪の毛の直径は約80μm

【高電流対応用積層型プローブ】

■「歴史があって今日がある」
今の清田さんは技術者であると同時に会社の社長である。新しい技術に挑戦する、収益を上げ会社を大きくする−という2つのテーマを抱えているはずだが、清田さんは「分相応」に傾き、つねに儲けることより技術に熱心だ。新しい立派な社屋よりも、研究に全てを注ぐ。事務所の壁には、「若くして学べば壮にして為し 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば死して朽ず」という楷書の一文が貼られてあった。小泉首相が演説で引用したという古諺を、清田さんが出典を漁って自筆したもの。清田さんの探求心は日進月歩の技術革新の世界にあってますます旺盛、ミクロを越えてナノの世界に迫り、バイオも視野に入れているそうだ。
「見たり、聴いたり、試したり−。その繰り返しがあっていまがある。76歳になった私だが、どんな方とお会いする時も、自分を無にして、全身を目と耳にする。そうして生きているかぎり、いくつになっても日々、新しい発見がある。試すことで、さらに新たな発見が得られる。その喜びが、私の生きる糧にもなっています」

「世界の清田」のミクロ探求は、果てしなく続く

顕微鏡を覗く清田さん
【顕微鏡を覗く清田さん】
取材・文 辰巳 まな

 
清田茂男(きよた・しげお)

○昭和2年生まれ
○役職:有限会社清田製作所 代表取締役  
○〒114-0016 東京都北区上中里2-32-12
○TEL:03-3914-0964・03-3912-2641/FAX:03-3914-8885
○HPアドレス:http://www.kiyota-s.co.jp