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<<< まちを元気にする達人たちFILE023 清田茂男 >>>
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嵐の様な雪がこぼれ落ちる涙と溶け合い、少年の心身を凍らせた。馬のそりに揺られること4時間。
「貧乏から脱皮したい」。わずか10歳にして志しを持ち、北海道から単身で東京に向かう、この少年が後に「世界の清田」と呼ばれる若き清田茂男さんの姿であった。 |
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| ■電子回路の性能測定 世界で一人だけの技術 「ミクロの世界に清田あり・・・」 何でも、電気の値を正しく計る為に提唱された、ケルビンという有名な物理学者の測定法則に最も近づけた、世界で唯一の人だという。半導体や電子回路、デバイスと聞いただけでも逃げ出したくなるというのに、それらの製品の性能を測る測定器(プローブ)を作っているというのだから、記者はお手上げである。北区は上中里駅、迎えてくださった清田さんは、思い描いていた神経質でふんぞり返った学者とは懸け離れ、「人情」という香りが滲み出ている、穏やかで優しい目の持ち主であった。 清田製作所社長・清田茂男さんは1927年(S2年)生まれの76歳。北海道は積丹(しゃこたん)の小学校に6年通っただけ。わずか10歳のとき東京・荒川の町工場に出て、以来、製造現場で精密機械のパーツやプローブの開発に取り組んできた。ある種の半導体や高周波デバイスのプローブをつくれるのは清田さんの他イギリスにもう一人だが、世界で清田さんだけしかつくれない製品もあるという。 ミクロの世界に清田あり― |
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一体、これまでどのような人生を歩んでこられたのか、どこでどう知識と技術を磨いて今があるのか。「自分を振り返るのは、次のステップになるんです」という清田さんの人生を、その生い立ちまで遡ってみた
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■生い立ち
生まれは北海道の積丹半島。漁村の多い田舎町。当時はニシンがよくとれ、何十年も続いた最盛期には大変賑わっていたが、小学校に上がるころ、急に獲れなくなって、街全体が沈んでしまった。家は雑貨屋で貸し売りもしていた為、それこそ夜逃げしなくちゃならないような貸し倒れに遭い、どん底の生活が始まった。他人にペコペコ頭を下げる親の姿を見て、当時小学2年生だった清田さんは子供ながらに莫大な借金を知って頑張らなくちゃと思い、「何をすればいいか」と常に問いかけるようになる。 貧乏だったが、気持ちの面では非常に豊かな家庭だったという清田家。祖父母の代に、農業開拓を目指し石川県から北海道へ移り住む。おばあちゃん子だった清田さんは、内地からくる人を歓迎して常に情報収集する祖母の姿を見て育ち、また人の道を教えられる。「進んで汗を流しなさい。人に迷惑をかけてはいけない。騙されることを良しとしなさい、だが騙したらいけない。世のため人のために働きなさい」祖母の訓戒は積丹の浜の波のように、繰り返し繰り返し行われた。 北海道では、クラーク博士の『少年よ、大志を抱け』は皆の合言葉であった。また学校でも教師に「日本は東洋のスイスにならなければならない」、つまり資源がない国はどうすればいいかという事で、精密時計で知られるスイスに倣え、と。この頃に「何をすればいいか」という問いが「精密で勝負せよ」に結びついたのであろう。 「それで主人が読み終わった新聞を懐に、子供を連れて砂場に行く。子供は一人で遊んでくれますから、自分は新聞の論説まで読んで、分からない字は近くの古本屋さんに寄って、立ち読みで辞書を引く。それで何となく産業の変化とか、将来の展望がどうとか、分かったような気になりましたね」こうして世界の情報や、グローバルな物の考え方はここで身に付いた。毎回同じ時間に現れタダ読みする小僧に古本屋のオヤジもしょうがないやと許してくれたそうだ。今、真っ先にお礼を言いたいが今では店がなくなってしまい、とても残念だと語る清田さん。夜は夜で、主人のお婆さんの肩揉みを1,2時間やらされた。お婆さんの母親は水戸の出で、徳川慶喜公を幼少のころ育てたとか。それでお婆さんから水戸学というか、行動的な水府流の考えを教えられたという。 いわば青雲の志を抱いて1949年(S24年)、21歳のとき、清田さんは再び上京した。今度の勤め先は荒川のハーモニカ工場だった。日本で初めてハーモニカを製造した人の甥が社長で、従業員は100人くらい。玩具のハーモニカが主体だったが、技術レベルは高く、当時すでにミクロン(1000分の1_)の単位を使っていた。 「プレス工場の衰退が始まろうとしていた時期でしたけど、ちょうど同じころ、カメラという精密機械が台頭した。それに露出計がついているんですが、その部品をつくるところがない。もちろんセイコーやシチズンはつくれましたけど、時計並みに高くて、カメラメーカーじゃ使い切れない。 当時のそれは弱いマグネットでメーターの針が動きます。部品の精度がよくて軽くなければ針が動きません。私のところにはハーモニカで培った技術がある。あれは銅合金の振動板を震わせて音を出すわけで、精密でなければ音が狂っちゃうんです」こうしてハーモニカ−カメラという思いがけない技術がつながった。73年にはさらにダイヤモンドのレコード針につながる。「アームの先にアルミの感知レバーがあって、その先端に微小なダイヤモンドを打ち込んで針ができてます。感知レバーはプレスの仕事なんですけど、レベルが高く、普通の工場ではおぼつかない。それをうちがやることになったんです。そのうちステレオには電子が入ってきます。精密なメカと電子を私はこの仕事で修得したんです」 ほどなくLPはCDに取って代わられる。しかしステレオセットのアンプには半導体やチップも使われていた。清田さんはここで電子技術の到来を予感し、しり込みすることなく挑戦していった。「とにかく自分の知らないことは人様から教わるほかない。自分で覚えるのは限界があるけど、教わろうとすることは無限だ、と。私にとって雲の上のような方が結構私に手ほどきしてくれました」いわばハイテク時代の黎明期から清田さんは仕事を通して開発、製造に携わってきた。新技術は恐ろしくない。町工場で培った技術と知識を延長し、その上に研究者や専門家の知恵を借りて、どうやったら目標に達せられるか考える。 |
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| ■「歴史があって今日がある」 今の清田さんは技術者であると同時に会社の社長である。新しい技術に挑戦する、収益を上げ会社を大きくする−という2つのテーマを抱えているはずだが、清田さんは「分相応」に傾き、つねに儲けることより技術に熱心だ。新しい立派な社屋よりも、研究に全てを注ぐ。事務所の壁には、「若くして学べば壮にして為し 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば死して朽ず」という楷書の一文が貼られてあった。小泉首相が演説で引用したという古諺を、清田さんが出典を漁って自筆したもの。清田さんの探求心は日進月歩の技術革新の世界にあってますます旺盛、ミクロを越えてナノの世界に迫り、バイオも視野に入れているそうだ。 「見たり、聴いたり、試したり−。その繰り返しがあっていまがある。76歳になった私だが、どんな方とお会いする時も、自分を無にして、全身を目と耳にする。そうして生きているかぎり、いくつになっても日々、新しい発見がある。試すことで、さらに新たな発見が得られる。その喜びが、私の生きる糧にもなっています」 「世界の清田」のミクロ探求は、果てしなく続く |
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取材・文 辰巳 まな
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清田茂男(きよた・しげお)
○昭和2年生まれ |
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