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<<< まちを元気にする達人たちFILE075 田上 勝俊>>>
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「今日の取材はアシモを作った人だよ。」と突然言われ、リュックサックにゆうゆう入る取材道具と、パンパンに膨れた緊張感を背負って出かけた。 本田技研工業株式会社、基礎研究所初代所長、現在は有限会社ヒューマンリンク社長である田上勝俊さんを訪ねた。 ■幼少時代 昭和14年4月3日、静岡県袋井市に生まれる。幼少時代を簡単に言うと「わんぱく、やんちゃ」ガキ大将だった。その頃の遊びは、隣町までめんこや独楽の勝負をしにいったり、小刀を持っていたので、竹とんぼや竹馬、模型飛行機などを作って遊んでいた。本田宗一郎さんは小学校に入る前には小刀で、刃渡り10センチ程の刀と鞘を作ったという。今の子供、そして親には考えられない話かもしれない。話が逸れそうなので、このくらいで‥・。 負けず嫌いは子供の頃からで、かっけこだろうが勉強だろうが、一番じゃなければ気がすまなかったと言う。 ■入社 理数系が好きで得意だった田上さんは、静岡大学電気工学科に進学する。まだこのときは、特別に研究者を目指していたわけではなかった。その頃一般的ではなかった自動制御に興味を持ち、学ぶ。卒業をひかえた頃、当時珍しい存在だった自動販売機の開発をホンダがしていると言う噂を聞き、ホンダに入社する。 ここから田上さんの研究者としての道が始まる。 ■発電機の開発から 入社してはみたけれど、ホンダは自動販売機の開発をやめてしまっていた。その代わりに携帯用発電機(現在、道路工事やお祭りの綿菓子を作る機械に使われている)の開発を命じられる。 「ホンダと言えば、昔からオートバイや車、機械で出来たエンジンと言うイメージ。機械技術の人材ばかりで、それが主流。電気技術で入社した私は傍流だった。だけど、外れていたからこそ、社長の目も届きにくいし、好きな研究が好きに出来た。」と笑う。 社内で発電機の研究をしていたのは、田上さん一人。教えを請う先輩もなく、全て一人でやらなければならない状況は、責任は大きいけれど、自ずと田上さんをその道の第一人者にしていく。 そして10年程で発電機のシリーズを完成させる。 業界の変化 発電機の研究開発が一段落した頃のこと。アメリカで世界初の自動車排ガス規制の法律が出来る。ホンダはいち早くそれをクリアしたCVCCというオール機械のエンジンをつくるが、それが電子技術導入への視野を狭め、世界の流れに遅れをとる。そこで田上さんをはじめとする電子技術の人間が召集され、開発が始まる。 機械技術から電子技術への変革の波に乗り遅れはしたものの、遅れを取り戻すべく必死の研究が実を結び、世界初のカーナビゲーションシステムを開発。カーエレクトロニクスの分野でトップに躍り出る。 ■アシモへの発想 またも10年の電子技術研究の後、更に高度な研究の必要性から、基礎研究所の設立に当たり、研究所所長に任命される。 まず何を研究するのか?ホンダはオートバイや車、移動する機械(モビリティー)が得意な会社。そこで将来のモビリティーを考え、3つの分野の研究が始まる。 T・2次元のモビリティー 人の手を借りないで走る車の開発 U・3次元のモビリティー ジェット機の開発 V・4次元のモビリティー 自分の分身ロボットの開発 Vがアシモになるわけである。 ■将来の道具 アシモ誕生まで苦難の道のりについては、是非とも、田上さんの著書「新しいものを次々と生み出す秘訣(かんき出版)」を読んで頂きたい。 自分の分身ロボットとして開発されたアシモ。田上さんは、 「自分の機能を補うロボットとしてアシモがあって欲しい。」と言う。 「今までの商品は、洗濯機など機能が商品名になっていて、作り手主導で作られてきた。しかし、これからはパソコンのように、何の為に使うかを人間が決める使い手主導の商品が求められるはず。」 SF映画に見るロボットと人間の戦争。道具と言うものは、いかなるものであっても、使う人間によって結果が変わってくる。それは過去もこれからも同じ事。その為に必要な教育についても、田上さんは開発者として当然考えていた。 ■是非、著書を・・・ 座右の銘を2つあげてもらった。 ・ 技術は哲学の結晶である(本田宗一郎) ・ 一期一会 語れなかったことがたくさんある。是非とも著書を読んで頂きたい。私は田上さんのお話を拝聴出来たことを光栄に思っている。
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取材・文 三島 浩 |
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