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  左官の達人/斉藤恒夫 左官の達人/斉藤恒夫  

 

 その日は雨が降っていた。約束の時間を15分過ぎたのに関わらず、遅れたことをまったく気にせず「寒いでしょうから体あったまってからでいいですよ」と迎えてくれたのは、左官屋の斉藤恒夫さん(インタビュー時の呼び方より以下親方)とその奥さん。インタビュー相手の自宅に伺うのは初めてのこと。緊張と焦りが、部屋に飾られたジンチョウゲの香りも手伝って和らぐ。花は二人の共通の趣味とのこと。
昔から工作が好きだった親方。飛行機などのおもちゃを自分で作っては、野山を駆けずり回って遊んだ。両親は百姓で8人兄弟の上から3番目。手に職をつけなさい、との父親の言葉に従い左官の仕事を選んだ。それから50年、いまも同じ仕事を続けている。

 仕事に就いて10年たった頃に初めての弟子をとった。弟子と呼ばれる身から、親方と呼ばれる瞬間を迎えた。弟子をとらないかと周囲から何度か言われていた。今ならいいか、と慎重に弟子を迎えた。左官技術に対する自信も出てきた頃だった。弟子との関係はまるで親子のようだ、と教えてくれた。自分の家に住まわせ、飯を共にする。壁塗りの技術の一つ一つを叩き込むことを通して、絆を深めていく。余談だが弟子の結婚式の時に家財道具一式まで用意したというのだから、それを家族と呼ばないでなんと呼ぶべきか。弟子をとるというのは生半可なことではない、と話してくれたのは奥さん。非常な責任が伴うという。弟子が育ち、一人前の仕事をし、家族を養えるくらいまでにならなければ、親方の責任は全うされないとのこと。育てた弟子の方々はどうされているのか?と質問したところ「ちゃんとやっていますよ」と力強い。

下塗り、中塗り、仕上げ、と壁塗りは大きく3工程に分かれる。みっちりと基本を仕込んだら、後は自分で良いか悪いかを判断するよう促す。最初に任せるのは表面に出ていないところ。徐々に表面に近いところを任せていく。美しい壁とは波のない水面のような静かな平面である。京都の壁塗り職人の修行では、タライのような容器に水を張り、その水面にこてを滑らせて波紋が立たなくなったら一人前だという。自分にはできない、と親方は言っていたが、左官技術の全国大会なるもので一位に輝いたことのあるという親方の腕をどのように量れるものか。弟子に教えるのは技術のみ。研究心を持ちなぜ自分にできないかを自ら考え実行するかしないかは、本人の問題だから、そこまでは望めるものではないという。成長とは自ら問題を課し、それを超えようとする「努力」ということかもしれない。この人は努力家なんです、とは奥さんの言葉。その背中を見れば、弟子は言葉や技術以上に、親方の壁に対する姿勢を感じ取ったのではないか。現在弟子はない、というより弟子という考え自体がほとんどなくなっている。左官技術は学校で教えているのだという。親方という呼び名も先生に変わりつつある。

丹念にこてを滑らせ完成を迎える。その次の日に親方は必ずあることをするという。それは壁の前に立ち全体を見返すことだ。昨日までの仕事をもう一度客観的に確認し反省するためという。表面に関しては一度塗ってしまえば修正することはできない。書道にもある、二度書きはご法度なのである。親方が実際手がけた壁を見せていただいた。自宅の床の間の壁である。京壁と呼ばれるそれはクリーム色、というかカスタードクリームのような柔らかい印象の色。壁の材料である植物の繊維だけがこてを滑らせた跡を物語っている。全体を見渡したとき、繊維の薄雲が均等に広がる空のように見えた。他にも玄関の漆喰の白壁を見せていただいた。壁塗りとはミリ単位の世界なのだが、中でも白壁は薄く、和紙二枚分の厚さしかないと聞いて驚いた。塗りたての時にはその内側の黒みがかった素材が透けて見えるという。真っ白の壁の前でしばし息を潜めた。心臓の鼓動まで邪魔になるのではないかという気がした。自分の家の壁を塗るように毎回取り組むんです、と親方。好きな言葉の一つに「誠意」を挙げていた。

 ジョギング、ドライブ、機械いじりと疲れを物ともせず精力的に取り組む親方。壁以外にもその手で作り出したものを見せていただいた。一つ上の階の倉庫まで取りに行き、10分くらいごそごそとやっていたので悪いことしたなと思っていたのだが、やっぱり頼んで良かった。見せていただいたのは花を生ける花器で水盤と呼ばれるもの。扇型に広がってなんだかめでたい印象を受ける。その水盤の前で親方の手を見せてもらった。指は太く、繊細というよりはごつい。しわに50年の汚れが年輪のように刻まれていた。5時のチャイムがどこからか聞こえてきた。気づいたのは親方である。耳も目もいいんですよ、と奥さん。仲が好いですね、と言うと、これくらい普通じゃないですか、とのこと。奥さんは裁縫の先生をやっていて、お互い忙しいのも仲の良い秘訣と教えてくださった。最後に「忍耐」がもっとも好きな言葉と親方。忍耐しながら仕事をする姿は容易に思い浮かべられるが、夫婦関係も忍耐が必要かどうかを聞きそびれてしまった。沈丁花は知っているのだろうか。
 

取材・文 都丸 道宣


 
斉藤恒夫(さいとう・つねお)

○職歴:左官一筋53年(左官はシャカンと読むとイキらしい)
○斉藤工業 職業訓練指導員
○東京都北区赤羽台32-26-12
○TEL:03-3900-6984